ラオス・ウドムサイ県アカ族村に、博士課程の張さんが滞在し、予備調査を実施しました。
2023年8月、9月にラオス・ウドムサイ県のアカ族の村Peemainoiにて調査を実施した。今回は初めての調査であったため、村の成り立ちや移住歴史について聞き込みし、家系譜の作成などを行った。また、狩猟、漁撈および畑の手入れなどの生業活動に参加し、面白い研究テーマについて考えながら濃い日々を過ごした。
Peemainoi村は、民族分類上にアカ族の下位グループのアカ・ジェビャ(Chepia/Jebya)に属し、19世紀(概ね太平天国の乱以降、検証が必要)に中国からラオス(ラタナコーシン王国支配下時期)に南下し、度重なる移住を繰り返し、現在のウドムサイ県内に定住したと考えられる。
村では以前、主食となる陸稲栽培に、狩猟採集や漁撈などを加えた複合的な生業形態が基盤となるが、2008年を境に、商品作物としてサトウキビ、カルダモンおよびハトムギが導入され、現在では欠かせない主な現金収入源となっている。また、2010年に、ラオス政府の移住政策により、Peemainoi村は山奥の旧村から現在の県道沿いの場所に移転し、商品作物の大規模栽培は実際この時期から始まった。現在では、基本全世帯がサトウキビを育ており、その収量は各家族の労働人口にもよるが、一世帯では年間概ね30トンから150トンの収穫量が見込まれる。収穫されたサトウキビは、中国雲南省側の製糖工場からやって来るトラックに回収され、1トンにつき約315元の買値となる(ちなみに雲南側でのサトウキビ農家から買い取る場合は、その値段が500元から700元の間となるらしい)。コロナ禍の間では、中国企業と栽培契約を結んでいるサトウキビのみが輸出でき、カルダモンやハトムギの輸出が中国政府から禁止されていた。こられの作物はラオス現地での需要が低かったため、安値で買い叩かれたという。2023年現在では、輸出禁止令が解除され、値段も一気に高騰した。
また、移住については、Peemainoi村のみでなく、周辺のいくつかの村もほぼ同時期に県道沿いに移転されたため、利用可能な耕地面積が一気に狭くなった。Peemainoi村の場合は、商品作物や焼き畑などをやるため、県道沿いにある土地の余っている村から年間契約で土地を借りざるを得ない状況となった。遠い場所だと10キロ以上離れているため、バイク移動が前提の焼畑生業となっている。
商品作物の導入により安定した現金収入を得られているが、村の食生活はいまだに自給自足が徹底されている。基本的な食事はうるち米に山菜やタケノコスープ、鳥やタケネズミや魚などの肉がついたらラッキー程度。豚やニワトリなどの家畜も飼っているが、来客がいるとか儀礼をやるとかじゃない限りは殺さない。私が滞在したのは雨季で、魚は二三日おきに獲りに行っていたため、頻繫に食べていた。
村の近くには川がないため、基本的には1時間歩いたところの川で魚を取ってくる。網漁が基本だが、最近は車載バッテリーにワイヤーつけて、電気ショックで魚を鈍らせてから潜って獲るのが主流らしい。
漁撈と同様に、村では狩猟も頻繁に行われている。野鶏やヤマドリなどの鳥猟は個人各々で行うが、シカ、キョン、イノシシ、そしてクマなどを対象とするいわゆるBig-game huntingは基本的巻き狩りで行う。猟犬文化はないため、鉄砲を持っていない若者中心に結成される勢子(獲物を追い込む側)グループと鉄砲持ちの射手グーグルがそれぞれ違うルートから山に入って、異なる沢筋から尾根を挟んでいくかたちで探索していく。移住後の道路沿い近くの山には野生動物が少ないため、巻き猟を行う場合は基本的に山道を1~2時間ほど歩き、旧村の跡地付近まで着いてから探索を始める。また、ラオス北部の山は藪が深く、地形が複雑な上に、ヤマビルの数も非常に多い。そんな環境の中で十何時間も歩いてかつ獲物一匹も見つからない状況になると、かなり心が折れる。ただ、実際こういった大変な狩猟ほど、ギャンブル味が強く、獲物を仕留めたときの達成感は、日本の食痕やシカ糞だらけの山で獲ったときとは比べるものにならないだろうと勝手に思ったりしていた(実際私が参加した猟では大物一回も獲れていないが)。
また、家畜については、移住前と比べて、外部へのアクセスが良くなったせいか、鳥インフルと豚熱が頻繁に起こるようになったらしい。私が滞在した前の年では、村中の鶏が全滅したらしく、豚の数も半分になったという。実際滞在中も、村長家のいつも元気な豚がある日から突然弱まって、そのまま死んだのを目撃していた。
二ヶ月間しか滞在していなかったが、最後まで非常に濃度の高いフィールドワークだった。特に最後の1〜2週間は、ちょうど新米の時期という事で、ほぼ毎日どれかの家族が儀礼をやって、豚を締めて、酒を振舞っていた。来客としての私は引っ張りだこになってしまい、村を出る当日まで永遠と酒を飲まされ続けていた。
日本に戻ってからはや一ヶ月以上だし、ラオスの酒も抜けてきたということで、フィールドノートを読み返し真面目に研究に向きあおうと今は思っている。
文責:博士課程・Zhuren Zhang
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