人類生態学教室
環境と健康は不可分の関係にあります。人為的な活動にともなう環境の変化、たとえば、化学物質による水や大気の汚染、快適ではない近隣居住環境の形成、生物多様性の減少、腸内細菌叢との共生関係の破綻などは、人間の健康にさまざまな影響を及ぼします。また、近代化、工業化などに象徴される社会環境の変化にともなって、食生活、労働、人口再生産という人間の適応システムを構成する基本的な行動も変容するものです。人類生態学分野では、人間が環境とどのような相互作用のなかで生存しているかという視点に立ち、集団ごとにみられる健康問題の生態学的・文化的要因について研究しています。
現在の主要テーマは以下の通りです.
- 環境要因の健康リスク評価
- 腸内細菌叢が人類集団の適応と進化に果たす役割の解明
- ポスト人口転換期における低出生の生物学的研究
- 少子化・人口減少がコミュニティーの健康に与える影響
- 生業と栄養、健康の関係性
- 医療人類学・生態人類学
教員の関心
人類の特徴のひとつは、環境の変化に対する適応力が高いことです。教授の梅崎は、この適応の多様性についての研究をおこなってきました。最近の関心は、腸内細菌叢が集団の栄養適応に果たす役割をみきわめることです。アフリカで進化した人類が、地球上のさまざまな環境に拡散するプロセスにおいて、一般的には人間の生物的な特徴を変化させることによる適応と、行動あるいは物質文化による適応の重要性が強調されてきました。しかし、最近の研究成果をふまえ、それぞれの地域での食生活に対応した腸内細菌叢が形成され、それが人間の生存に必要な栄養素のうち食生活だけでは賄えない部分を補完する役割を果たしてきたのではないかと考えるようになりました。梅﨑が1990年代から調査を行ってきたパプアニューギニア高地社会には、サツマイモ中心の食生活でタンパク摂取量が明らかに欠乏しているにもかかわらず、タンパク欠乏にともなう臨床症状をしめさず、むしろ立派な筋肉を発達させる人々が暮らしています。この「低タンパク適応」のメカニズムを明らかにするため、細菌学者、ゲノム科学者、生化学者、文化人類学者などとの共同チームを組織して、挑戦を続けているところです。今後は、他の地域の人類集団を対象にした研究へと展開していきたいと考えています。
もうひとつ、人類が高齢化・人口減少という「問題」に対してどのような創造的な適応をするかということに興味があり ます。高齢化・人口減少は、人類が産業革命の恩恵を受けたことの帰結ともいえる現象であり、先進国で先におこった後、グローバルに拡がっていく問題です。これまでの歴史のなかで、人類は必要に迫られるほどに創造性を発揮してきました。自らの進化した環境であるアフリカを離れ、地球上のあらゆる場所に拡散し、農耕を発明し、そして近代科学にささえられた社会を構築してきました。そんな人類は、グローバルレベルですすむ高齢化・人口減少という難題に、どのように対処するのか。世界に先駆けて高齢化・人口減少を経験する日本の地方で、定量的なデータ収集と現場での「予断なき観察」を組み合わせた研究をすすめています。
准教授をつとめる小西は、大学院生の時はトンガ王国に16か月間滞在し、なぜトンガの人々が肥満になるのかという問題意識をもって研究をすすめました。運動不足と食べ過ぎが肥満の原因であるのは当たり前のことですが、その背景には海外に移住した親族からの仕送りと、それにともなう生活様式の変化があることがわかりました。肥満という健康問題を、社会変化・文化変容とのかかわりで扱う視点に、人類生態学のオリジナリティーがあると思います。
現在、取り組んでいる研究テーマは、「なぜ先進国の出生力が極端に低いのか」という問いに答えることです。一般的には、出生力が低下したのは、結婚しない女性が増えたことと結婚するにしてもその年齢が高くなったことが原因であると説明されます。もちろん、それは間違いないのですが、しかし一方で、現代の女性が、妊娠を企図したときに、そのための生物的な能力(妊孕力[にんようりょく])が低下している可能性についてはあまり研究されていません。いくつかの化学物質への曝露は妊孕力を低下させる可能性があると考えられています。女性の妊娠企図から出産までを追跡する通称「ベビ待ち調査」や、化学物質への曝露が妊孕力に与える影響を評価する研究、そして世界にほこる日本の人口統計をもちいた研究など、さまざまな側面から低出生力の要因を解明するための挑戦を続けています。出生力の研究の他には、花粉と大気汚染の相互作用が花粉症の重症化に及ぼす影響の研究など、いわゆる環境保健学に分類される研究にも取り組んでいます。
助教のKyi Mar Wai は医学博士で、研究テーマは環境衛生・母子保健です。特に、環境汚染物質が人間の健康にどのような影響を与えるかに興味を持ち、研究に取り組んできました。環境汚染物質が母体から胎児に移行することで、健康リスクが次世代に拡大する可能性について着目しています。また、Hirosaki Center of Innovation(COI)と共同で健康増進プロジェクトに携わっています。COIのデータベースを用いて、地域社会の健康増進の裏付けとなる非感染性疾患の様々な環境決定因子を調査しています。その他に、アジア諸国における出生前の環境汚染物質曝露継世代影響に焦点を当てた出生コホート研究にも従事しています。
助教の水野は、化学物質曝露によるヒト健康影響に興味を持ち、微量元素類の曝露と酸化ストレスとの関連について日本だけでなくラオスなどのアジア諸国の辺縁地域の集団を対象に環境保健学研究に取り組んできました。我々の日々の生活は、科学技術の進歩に伴い生み出された便利で役に立つ化学物質に支えられています。しかし、ヒトがどのような化学物質にどの程度曝露し、その化学物質への曝露が健康にどう影響するかはまだまだ不明な点が多くあります。曝露や健康影響のバイオマーカーの化学分析にも自ら取り組んで身につけた分析技術を活かし、現在は化学物質曝露とその健康影響を定量的に評価するヒトバイオモニタリング研究における新しいアプローチの提案に挑戦しています。
助教の木部は、ラオス北部農村における集団特異的な健康関連要因、特に野生植物の嗜好について研究を進めています。一般に、強い苦味や酸味は毒素や腐敗のシグナルとしてはたらくため、これらの味を呈する食べ物は忌避されます。しかしラオス北部においては、このような味のする野生植物が好まれる傾向にあり、日常的に消費されています。これまでの定量的な食事・身体活動調査で、野生植物が重要な栄養素摂取源であること、そして野生植物の消費が生業戦略と関連している可能性が示唆されました。また、「忌避される味」を嗜好する人々は、何か味覚に特徴を持っているのではないかという仮説を立て、生理学的なアプローチにも挑戦しています。近年ラオス北部で急速に進んだ現金経済化は、現地の生業戦略と食事パタンを根本から変えています。まさに栄養転換の真っただ中にある地域において、古典的な人類学の手法に新たな視点を組み込んで調査を続けています。
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人類の生活する環境は常に変化しています。そして人類の環境への適応は静的なものではなく動的なものです。人類生態学の基本は適応の研究ですから、いかなる人類集団も研究の対象になります。これまでは、特徴的な環境条件あるいは急速に環境が変化する状況に生きる人類集団、そして社会的な問題をかかえる人類集団が対象とされることが多かったように思います。人類生態学の射程は時代とともに変化しており、探検の時代には極端な寒さや標高の高さ、前人未踏の人類集団などの研究が、高度成長期に環境汚染が問題となった時期には重金属をはじめとする汚染物質への暴露の健康影響についての研究が、地球環境問題が認識されるようになってからは、生存の持続性や食料の安定的な生産についての研究がおおくおこなわれました。
これからどういう領域が人類生態学の中心になっていくかは、現在のそして将来の教室メンバーが考えていくことですが、できるだけ独創的でおもしろい研究成果をだしていきたいと思います。私たちが学生の頃は、「失敗してもいいから、自分がおもしろいと思うことを、とことんやってみなさい」という方針で指導されましたが、それは今も変わりません。人類は環境にどのように適応するのかという、医学・保健学の最も基本的な領域において、世界を驚かせるような研究をしたいと思います。
2019年4月
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